1995年1月17日 午前5時46分
兵庫県南東部地震発生、死者6,434人。
この数字は別に資料を見直したわけではなく、覚えてしまった数字です。
当時新大阪に勤めていたゆうさんはもうすぐ起きなあかんな~と布団の中でグズグズしていました、そこへ轟音と共に大きな振幅の地震、それはそれは長く感じました。
地震後しばらくして停電、水は出たのですが、何か胸騒ぎがあり、お風呂いっぱいに水をためておきました。
案の定、マンションのタンク内にあった水が出ただけでやはりしばらくは断水してたので、水は本当に助かりました。
1週間の自宅待機後初めて大阪へ向かうのに選んだ方法は淡路の津名経由で大阪港に入るルートで、半日かかってようやくたどり着きました。
しばらくは月、火と木、金の会社に泊まりながら仕事をしていました。(水曜日休みをくれていました)
一番長く使った通勤ルートは魚住→加古川→(加古川線)→谷川→(福知山線)→大阪で、これでも3時間、でも当時は確実に4時間かかっていました。
三宮~住吉間のバス代行運転が軌道に乗り始める頃、通勤もそれに代えて、徐々に代行区間が短くなっていく事に復旧を実感したものです。
バス停まで歩く距離が結構あったのですが、その時でも灘のあたりは瓦礫の山で大きなコンクリート塊を踏み分けて通ってましたね。
でもね、当時思い返すとみんな、本当にやさしくなれていたと思います、重い荷物を持って階段を昇ってる人を見つけたら、誰からとも無く、声をかけて手伝ってました。
とても自然に、みんなでがんばろうな!という気持ちでいっぱいだったように思えます。
今日を機会にあんな事が無くてもお互い思い合える世の中にしたいものです。